亀田俊和検証委員会

HN【御座候/はむはむ2世】が江湖に問う「哲学から下ネタまで、何でもありの型にはまらないブログ」……ではなく、歴史学者・亀田俊和、呉座勇一氏らの『歴史の真実』の他、呉座・日本史界隈、本邦のアカデミズムの闇などを検証しているブログです。

楽園のハレムー検証・亀田俊和氏の台湾通信~その弐~

亀田俊和氏の勤務先への抗議などは、絶対にやめて下さい。宜しくお願い致します。

・初めて当エントリーを読まれる方は、亀田俊和 - Wikipediaの他、以下の「呉座勇一事件(呉座騒動)」に関する記事などの、ご一読をお勧め致します。

kensyoiinkai.hatenablog.com

kensyoiinkai.hatenablog.com

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「匿名で悪口スクショが続々と…」呉座勇一氏“中傷投稿”問題、渦中の北村紗衣氏が語る顛末 | 文春オンライン

自分を責める気持ちが湧いてきて…呉座勇一氏“中傷投稿”問題、北村紗衣氏が語る「二次加害の重み」 | 文春オンライン

呉座勇一「炎上」事件で考える、歴史家が歴史修正主義者になってしまうということ | ハーバー・ビジネス・オンライン

知識人「言論男社会」の深すぎる闇…「呉座勇一事件」の背景にあったもの(後藤 和智) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

令和三年・呉座の乱:ロマン優光連載183 (2021年3月26日) - エキサイトニュース

ベストセラー『応仁の乱』呉座勇一さんを名古屋大教授らが提訴 「オープンレターを削除する義務ない」 - 弁護士ドットコム

武蔵大准教授の北村紗衣氏、甲南大非常勤講師を提訴 「ツイッターで名誉毀損された」 - 弁護士ドットコム

・当ブログへのご意見・ご感想などは下記のメールアドレスまでご連絡下さい。

higakitakashikensyoiinkai@gmail.com

・先日、『中国史史料研究会』(志学社)のHPが更新され、会報の最新号(第18号)が発行されております。現在、同誌上で連載中の亀田センセイによる「亀田俊和の台湾通信」の最新回(第19回)も無事掲載されておりました。亀田センセイがご壮健なようで、何よりです。在りし日の喜色満面の「笑顔」を、もう一度ツイッターで拝見させて頂きたいものです。

※以下のツイートは、ご参考までに掲載したものであり、自分はこれらのご見解に賛同している訳ではありません。宜しくお願い致します。

 ご興味ある方は是非ご一読下さい。当ブログでも順を追って、いずれ検証する予定です。宜しくお願い致します。

・しつこいようで恐縮ですが、例の唐沢俊一の銀行口座凍結騒ぎ。結局、有耶無耶の内に終息しそうな気配です。今のところは。

※以下のツイートは、ご参考までに掲載したものであり、自分はこれらのご見解に賛同している訳ではありません。宜しくお願い致します。

 改めて、唐沢の不様な晩年は、ご理解あるお優しい熱心な「信者」に取り囲まれた「裸の王様」の哀しき末路でもあると、思った次第です。

 実際、良くも悪くも健全な「批判」でさえタブーになって馬耳東風に一切受け付けなくなると、ご自分がやらかしたことも、後から何時でも解釈変更が可能などと勘違いが進行するようです。かつて唐沢の盗用を恥も外聞も無く、平然と擁護していた原田実氏などにも、その兆候らしきものが。

※下記のツイートは、ご参考までに掲載したものであり、自分はこのご見解に賛同している訳ではありません。宜しくお願い致します。

 いやあ、偶然って、やはり怖いですねえ。 

 翻って、上記の唐沢の終幕は、亀田センセイや呉座勇一氏なども他人事では無いと思われます。ある意味、唐沢の生き様は、偉大なる反面教師でしょう。もとより、唐沢とお二方は断じて同類ではございません。単純に比較できない部分が多過ぎます。お二人とて、唐沢と同列に論じられるのは、甚だ不本意かと推定されます。

 くどいようですが、ご自分が大好きなことをご本業にしていくのは、ある意味、茨の道でもあると思われます。私見ですが、無数の熱心な「信者」によって、日本史界隈の「権威」として必要以上に崇められ続けたことも、ご両名のまさかの失墜を招いた背景の一つでしょう。この場をお借りして、近年の歴史界隈が生んだ二大スター学者たるお二人のご健闘をお祈り申し上げます。祈るだけなら、自分如きでもできますので。目下、呉座氏も裁判以外で色々と大変だそうですから。

●「亀田俊和の台湾通信」第1回(※後篇分)から

(前回のエントリーからの続き)亀田俊和の台湾通信」の第1回分の残る後半部分を取り上げていきます。

 台湾大学のお話が来たときの状況は、おおよそこんな感じであった。それまで、50 以上の大学や博物館に応募していた。博物館のために、公務員試験の間題集を買って勉強したこともある。しかし、すべて落ちていた。

 特に大学は面接や模擬授業の段階にも進めず、すべて書類審査で刎ねられていた。当時の私は、応募する前から不採用と決めてかかっていた。 変に期待すると、かえって精神的なダメ ー ジが大きい。日本史研究者が、日本国内の大学でさえ箸にも棒にもかからない。まして今回は海外の大学である。またいつものように、「どうせ不採用だろうが応募しないよりはまし」という気分であった。 

亀田俊和「亀田俊和の台湾通信:第1回」(『中国史史料研究会』会報準備号)

「それまで、50 以上の大学や博物館に応募していた。博物館のために、公務員試験の間題集を買って勉強したこともある。 しかし、すべて落ちていた。」

「特に大学は面接や模擬授業の段階にも進めず、すべて書類審査で刎ねられていた。」

「日本史研究者が、日本国内の大学でさえ箸にも棒にもかからない。」

 ……これらもまた自分にとっては、ある意味、衝撃的な事実でした。亀田センセイの述懐を額面通りに受け取れば、の話ですが。亀田センセイ程、非凡な研究者が、日本中世史の大家でさえ、大学はおろか博物館などの職にありつくこともままならないとは。本邦のポスドクオーバードクターなどの問題の根深さは、個人的には柳原望氏の漫画『高杉さん家のおべんとう』(KADOKAWA)シリーズ*1などでも見聞しておりましたが。

 とはいうものの、私事で恐縮ですが、実は、自分もずっとある疑念を抱いておりました。曲がりなりにも京都大学で博士号(文学)を取得し、優れた学術論文を何本も執筆して複数の権威ある学術誌に発表。単著だけでも、台湾大学への公募(?)前に計5冊も著すなどの実績を積んでいたにも拘らず、亀田センセイは何故国内の大学及び研究機関で職にありつくことができなかったのか*2そもそも、日本中世史の研究者が、わざわざ海外に活路を求めて、台湾の大学に赴任しなければならかったのか?

 ネットなどが発達した現在では、世界中何処にいても、日本史の研究を続けることは(一応)可能でしょう。第一、グローバル化が進んだ今時、海外でも日本語に堪能な外国人の日本史の学者などは、珍しい存在でも無いと思われます。

 ですが、新史料の調査や発掘、研究などは、依然として国内の方が有利な場合もあると考えられます。無論、これらは素人である自分の勝手な推論に過ぎません。多少なりとも事情が異なる可能性は捨て切れません。

 それでも、本邦からは比較的近場とはいえ、日本中世史の研究者が異国の地に渡って拠点を構えることに如何なるメリットがあるのだろうか、など。疑問は尽きることがありませんでした。

 では、どうして亀田センセイは国内のあらゆる大学・研究機関などから婉曲に敬遠されていたのか。ネット論客・HN【はむはむ】として力戦奮闘する一方、研究者としては、その赫々たる実績とは裏腹に、長年に渡って不遇に喘いでいたのか?

 恐らく、拙ブログを隅から隅まで御覧になられたお方は……おおよその事情について察しがつくのではないでしょうか?ここだけの話、自分もお噂をかねがね伺っております。もとより、断定はできませんが。

 いずれにしても、亀田センセイのケースは、ご本人の個人的な問題も大きいと考えられますから、依然として深刻な本邦の「ポスドクオーバードクター問題」として一概に単純化して語ることはできない側面があります。

 まあ、亀田センセイの場合、年齢的な問題なども、個人的には大きかったと推定されます。大学・研究機関側も、亀田センセイの研究者としての才能・実績は折り紙つきだが、どうせ採用するなら、もっと若い人材の方が良いなどと考える向きも多かったでしょうから。事実だとしたら、やるせないというか、何というか。

 読史会大会の数日後、吉川先生から台湾大学の募集要項をいただいた。しかし、すぐには書類の作成に取りかからなかった。当時、『征夷大将軍護良親王』(戎光祥出版、2017 年)の校正作業に忙殺されていたように記憶している。群馬県の名家彦部家と立教大学での講演も依頼されており、それらの準備にも追われていた。そもそも、本当に応募しようかずっと迷っていたというのもある。

亀田俊和「亀田俊和の台湾通信:第1回」(『中国史史料研究会』会報準備号)

 実際、亀田センセイは翌2017年5月に『征夷大将軍・護良親王』(シリーズ・実像に迫る7、戒光祥出版)を上梓しております。この頃は、ご著書の新刊の準備などでも忙しかったというのは、概ね事実だと推定されます。講演云々については、不明ですが。

 結局応募を決意し、ようやく書類の作成を始めたが、台湾大学に限らず、大学の公募書類というのは作成が大変で、心労の重なる作業である。まずはもちろん履歴書から取りかかったが、中国語か英語で作成するようにとの募集要項の指示を見て、 早速心が折れかけた。
 申し遅れたが、 私は中国語をまったく知らなかった。大学の学部で選択した第二外国語はドイツ語であった。当時知っていた中国語は、「作好」「謝謝」「再見」程度である。 四声については、中国語を履修していた人から教えてもらって知っていた。 後は「我愛祢」「作愛我」 と冗談で言い合っていたくらいである。中国語で履歴書など書けるわけがない。そしてもちろん、これも応募を送巡していた大きな理由であった。
 困った私は、中世史の上島享先生に相談した。すると、 すぐに中国人の留学生に依頼して、履歴書を中国語に翻訳していただいたものをご送付いただいた。この間、 わずか 30 分程度だったように記憶している。2~3日はかかると思っていたら、予想外に早く戻ってきたので非常に驚いたが、ここまでしていただいて応募しないわけにはいかない。私は腹を括って覚悟を決めた。
 その後も公募書類の作成は大変であったが、何とか完成させ、台湾に郵送したのは年末年始の提出期限ギリギリであった。そのときも、期限に遅れて落とされても別にいいやくらいの気分だった。

亀田俊和「亀田俊和の台湾通信:第1回」(『中国史史料研究会』会報準備号)

 京大で習った第二外国語がドイツ語であり、実のところ、中国語は文字通り全くの素人だったいう亀田センセイ。当然のことながら、台湾とは縁もゆかりも無かったそうです。少なくとも、この時点では。

 しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、ひょんなことから(?)飛び込んで来た台湾大学の公募の話に、かくして飛び付いたのでした。めでたしめでたし……ではなく、ここからがいよいよ本番だったようです。

 まずは第1ハードルとも言うべき公募書類の作成。

 ここでも亀田センセイは、周囲からの手厚いご支援によるお膳立てもあり、何とか中国語で履歴書などの書類を完成させることができたそうです。不遜な言い方で恐縮ですが、一から十まで悉く他者のお世話になったようで、これなども何よりでございます。持つべきものは……いえ、無粋でした。何でもありません。

 個人的には、ここで、一つ看過できない重大な疑惑があります。

 そもそも、台湾の大学など高等教育機関で、日本人が日本語等の教員として働くためには、本来ならば日本語教師としての経験(最低でも3年以上)が必須条件とされているそうです。言うまでもなく、亀田センセイの現在の肩書は「国立台湾大学日本語文学系 助理教授」ですが、台湾に渡る前に日本語教師として専門の訓練(教育実習など)を受けた、又は国内外で経験豊富だったという事実は今のところ確認できません。

clubtaiwan.net

 言わば中国語云々以前に、遺憾ながら、日本語教師としては素人同然だった亀田センセイにわざわざ台湾の大学の公募の話が、このタイミングでどうして来たのか?ちゃんと日本語教師としての実績があり、中国語などに堪能で言語学の知識が豊富な研究者の方こそ、この種の公募の話が適任だったのでは無いかと。

 まさかと思いますが、ある程度は……いえ、確証に乏しいため、現時点ではこれ以上何とも言えません。無論、結果論に過ぎないと言えば、それまでの可能性もありますが……。

 余談ですが、「中世史の上島享先生」とは、京大大学院文学研究科の上島享教授のことでしょう。専門は日本中世史だそうですから、学問的にも年齢的にも亀田センセイの先輩格の方と思われます。


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*1:→主人公が地理学の博士号を取得するも、教員・研究機関などの公募に落ちまくっている中学校の非常勤講師(後にN大の助教)のオーバードクターという設定です。地理学の話題も豊富なので、ご興味ある方にはお勧め致します。

*2:→もとより、名ばかりだった京大非常勤講師のポストなどは除きますが。