・亀田俊和氏の勤務先への抗議などは、絶対にやめて下さい。宜しくお願い致します。
・初めて当エントリーを読まれる方は、亀田俊和 - Wikipediaの他、以下の「呉座勇一事件(呉座騒動)」に関する記事などの、ご一読をお勧め致します。
・当ブログへのご意見、ご感想及び情報提供などにつきましては、下記のメールアドレスまでご連絡下さい。場合によっては、謝礼等も前向きに検討致しますので、宜しくお願い申し上げます。
higakitakashikensyoiinkai@gmail.com
※エントリーの容量などの関係で、統一協会及び山上徹也被告に関する情報更新等は、お休み致します。
今迄の情報などは、下記のまとめをご参照下さい。宜しくお願い申し上げます。
・3月31日、中居正広事件に端を発したフジテレビ問題を巡って、同局が日弁連基準で設置した第三者委員会の報告書が公開されましたが……多くの識者が指摘しているように、ある意味、文春砲が訂正していた一点を除けば、概ね『週刊文春』の報道を(皮肉にも)裏付けるというか、それ以上に衝撃的な内容だったかと考えられます。
同報告書を受けて、当時、フジ専務だった関テレ社長の大多亮氏が辞任を表明するなど、大揺れが続くフジサンケイグループですが……改めて中居正広がジャニーズ出身、それも引退するまで曲がりなりにも古巣と良好な関係を築いていた「円満退所組」であり、ジャニー喜多川の性加害事件の連鎖というか、構造的な問題も背景にあると思わざるを得ません。
というか、BBCの報道でジャニー喜多川の性加害事件が白日の下に曝され、ジャニーズタブーが完全に破らなければ、今回の問題がここまで明るみに出ることも無かったでしょう。
※以下のポストのスクショなどは、ご参考なまでに掲載したものであり、自分はこれらのご見解に賛同している訳ではありません。宜しくお願い致します。









































































































繰り返しますが、ファンはタレントを映す鏡とも言います。そうした延長線上でも、やはり、炎上柱🔥の無思慮かつ無神経な言動の数々は……ゲフンゲフン、失礼致しました。
因みに、中居正広を逸早く切り捨てていた「Lilalicht_8」の場合、例の第三者委員会の報告書の発表後は、フジテレビ問題にも、中居正広事件にも、ダンマリのようでした。
というか、何かに憑依されたかの如く、KAT-TUN等のジャニタレのポストをリポストしまくっていた模様です。はい。
いつもながら、大変恐縮ではございますが、
ジャニー喜多川による性加害については、『週刊文春』が実質勝訴した民事訴訟(※2004年2月、最高裁で高裁判決が確定)にて「真実」と認定されております。
又、裁判に於ける「証言」は、「証拠」として法的に扱われます。何のために、法廷にて証人尋問等をするのですか。
にも拘わらず、ジャニー喜多川による性加害事件が、刑事事件として扱われなかった背景には……被疑者死亡、時効等の壁に加えて、本邦では2017年の刑法改正に至るまで、男性に対する性加害が刑罰の対象にならなかったことも要因です。
●呉座勇一氏、悲願の准教授昇格へ……しかし!?
既にご存知の方も多いでしょうが、4月1日を以て、呉座勇一氏が日文研内にて「助教」から「准教授」へと昇格しました。
呉座・日本史界隈、反オープンレターズ「呉座神聖十字軍」のお歴々間でも、亀田センセイの「友人」でもある新名一仁(田部連)氏を始めとして、伊藤剛、河野有理、高橋雄一郎氏らが触れるなど、歓迎ムード一色……のようですが、遺憾ながら、ごく一部に限られるている模様です。
無論、あくまで自分の観測範囲であり、見落としている可能性もあるかと考えられますが。
今のところ、当時、あれだけオープンレター関係者らに対し、再三再四に渡ってド派手な「武勇伝」をご披露していた池内恵氏、呉座・日本史界隈の大山格氏、そして亀田センセイの「大親友」のしろちち氏らは、無視ないし軽視の構えのようです。大山・しろちち両氏の場合、失念しているだけの可能性もあるとはいえ、です。
誠に勝手ではございますが、自分としても、やはり、素直には喜べません。
以前にも触れましたが、呉座氏が日文研(より正確には、運営元の人間文化研究機構)を相手取った労働裁判の「和解条項」は、以下のような条項で成り立っております。
1 原告は、被告、国際日本文化研究センター(日文研)並びに被告及び日文研に所属する職員等に対して、原告がインターネット上に不適切な書き込みをして迷惑をかけたことについて謝罪する。
2 原告及び被告は、原告が構成研究員の地位にあること及び原告が別紙「原告の遵守事項」を遵守することを前提に以下の各期間において、被告が原告を各職名の地位に就ける予定であることを確認する。
令和5年11月1日から令和7年3月31日。助教、
令和7年4月1日以降 准教授(ただし、定年制が適用される教員としての身分を有するもの)
3 原告は、別紙「原告の遵守事項」の遵守状況を、被告において原告の採用、更新、昇進及び在職中の処分にあり考慮することに異議を述べない。
4 原告は、被告に対し、本和解成立後速やかに労働組合による原告に関するインターネットを利用した情報発信を全て削除することを労働組合に申し入れており、労働組合から承諾を得ていることを確約する。
5 原告及び被告は、和解が成立した事実を除き、本件訴訟、和解の経緯・内容について第三者に口外しないことを相互に約束する。ただし、原告が令和5年10月1日以降、「被告は、和解条項所定の合意に基づき、原告を令和5年11月1日から、助教の地位に就ける予定である」と限度で公表することについては、被告は異議を述べない。
6 原告は、その余の請求をいずれも放棄する。
7 原告及び被告は、原告と被告との間には、本件に関し、本和解条項に定めるもののほか、何らかの債権債務もないことを相互に確認する。
8 訴訟費用は、各自の負担とする。
そして、上記の「和解条項」の「2」にあった別紙「原告の遵守事項」とは、下記の通りです。
(原告の遵守事項)
1 規則等の遵守
原告は、被告及び日文研が定める就業規則等の諸規則(令和2年10月8日付「国際日本文化研究センター教職員が個人でソーシャルメディアを利用する場合の注意点について」で定められた事項を含む)を遵守する。
2 誹謗中傷記事の削除
原告は、被告及び日文研並びに教職員等を誹謗中傷するインターネット上の書き込みがある場合は、被告の申し入れにより、原告自身によるものは速やかに、労働組合等の第三者を介して発信したものは、当該第三者に削除を依頼し、その経過を被告及び日文研に報告する。
3 ソーシャルメディアその他インターネットを利用した情報発信
原告は、原告がインターネット上に不適切な書き込みをしたことにより数々の問題を引き起こしたことを真摯に省み、引き続き、ソーシャルメディアその他インターネットを利用した私的な情報発信を自粛し、研究活動や業務遂行上の情報発信も必要最低限にとどめ、かつ私的な意見表明は最小限にとどめる。
4 所内の労働環境・研究環境への十分な配慮
(1)原告は、教職員との会話、電話の録音及び所内における撮影を、正当な理由がない限り行わない。
(2)原告は、日文研が貸与した公用のパソコンに、学術・研究活動とは関係ない私的なデータをダウンロードしたり保存したりしない。
5 カウンセリング
原告は、原告がインターネット上の不適切な書き込みをしたことにより種々の問題を引き起こしたことを真摯に省み、当面カウンセリングを継続するものとし、被告又は日文研から要請があった場合には、その状況について報告する。
……このように、呉座氏は、日文研でのテニュア回復(准教授への昇格)と引き換えに、日文研サイドからは、自分も当ブログで繰り返し指摘していた「国際日本文化研究センター教職員が個人でソーシャルメディアを利用する場合の注意点について」等の規則の「遵守」のみならず、在職中はSNS等のインターネット利用にも大幅な制限が課せられること。
そして、呉座氏ご本人からの提案でも始まった例の「ジェンダー・フェミニズムに関するカウンセリング」を継続することなども名実共に「確約」させられたのでした。
とどのつまり、呉座氏は日文研及び人間文化研究機構の全職員への「謝罪」という屈辱的な「土下座外交」じみた仕打ちに加えて、日文研を退官するまでのネット利用、とりわけネットを通じた情報発信等にまで何重にも足枷を嵌められたようなものであり、想像以上に過酷な内容であったことが一目瞭然かと存じます。
というか、「和解」という名の、日文研から呉座氏ご本人への「厳命」でしょうね、これは……!?
理非善悪は別として、院生・ポスドク時代から、ネット軍師・HN「御座候」=歴史学者・呉座勇一として、公私に渡って亀田センセイの「相棒」でもあり、恐らく、当時から八面六臂の(以下略。
反オープンレターズは誰一人として触れたがらないようですが、呉座氏は晴れて准教授昇格とはなったものの、今後、日文研で教授にまで昇進できても、呉座騒動で懲戒処分が確定した以上、退官後に「名誉教授」の称号を得るのは絶対不可能……とまでは言わないですが、絶望的かと存じ上げます。
遺憾ながら、教授会で推薦されないのは、ほぼ確実でしょうから。
退官直前に不祥事を起こし、勤務先から懲戒処分(戒告)を喰らった宮台真司のケースは、記憶に新しいところかと。
恐らく、これだけでも、呉座氏ご本人からすれば、耐え難い……おや、誰か来たようです。

ハンガリー南東部のベーケーシュチャバ市にあるトリアノン条約のモニュメントです。
さながら、ギロチンで寸断される大ハンガリー(第一次世界大戦前のハンガリー王国こと歴史的ハンガリー)をイメージしたものかと推定されます。
恐縮ながら、呉座勇一氏の労働裁判の「和解条項」の全文を一読後、咄嗟に自分の脳裏に浮かんだのは.……第一次世界大戦後の1920年、ハンガリーが連合国との間で結んだトリアノン条約について、ハンガリー人が文字通り「国辱」「民族的トラウマ」として刻んだらしい、このモニュメントの写真でした。
とどのつまり、呉座氏が労働裁判の「敗北的和解」(実質敗訴)によって、日文研サイドとの間で交わした「和解条項」こそ……まさに「令和のトリアノン条約」だったかと存じます。
本邦では、殆ど知名度が無い連合国による対ハンガリー講和条約の「トリアノン条約」ですが……実のところ、ハンガリーにとっても、大多数のハンガリー人にとっても、ある意味、ヴェルサイユ条約と同等か、それ以上に過酷な内容の条約でした。
事実、このトリアノン条約によって、独立後のハンガリーは……オーストリア・ハンガリー帝国時代*1の旧領の約3分の2を喪失し、更に約330万人の同胞が国境線の向かい側に追いやられ、周辺国で「少数民族」としての悲哀を味わなければならなくなったからです。
しかし、当時のハンガリーは……第一次世界大戦で大きな犠牲を払った上、戦後は共産革命騒ぎが起こるわ、隣国ルーマニアの侵攻を受けるわ、内憂外患で混乱の極みにあり、結局、連合国が押し付けた過酷な条約を丸吞みせざるを得なかったそうです。
ある意味、悲願の「完全独立」と引き換えに……四肢をバラバラに切断されたようなものであり、そうしたハンガリー国民が受けた衝撃と屈辱感が、上記のモニュメントにも顕著に現れているかと思われます。
実際、当時から現在に至るまで、ハンガリー国内ではトリアノン条約については「条約」の他、「命令」だの「トラウマ」だの、民族的受難として語られることも多く、少なからぬハンガリー人の間にも「トリアノン症候群」という独特のコンプレックスを残しているようです。
呉座氏も日文研での准教授昇格(テニュア回復)という最低限の目標達成の代償として、多くのものを失ったこと。
結果論であれ、得るものよりも失ったものの方が、遥かに大きかったらしいことなど、一連の法廷闘争とその結末は、やはり、ハンガリーと「トリアノン条約」の史実等を連想させてくれるのです。
無論、呉座氏としては如何に屈辱的であろうと、ハンガリーとほぼ同様に、あの「和解条項」を受け入れざるを得なかったというか、恐らく、他に有効な選択肢は無かったでしょう。
余談ながら、「トリアノン症候群」こそ、ある意味、現代のハンガリーがEUの鬼っ子たる背景の一つであり、オルバーン・ヴィクトルを中心とした権威主義体制の下地になっている可能性もあるかと考えられます。
※以下のポストのスクショなどは、ご参考なまでに掲載したものであり、自分はこれらのご見解に賛同している訳ではありません。宜しくお願い致します。


























当事者の呉座氏も、中田・吉峯両氏らも、相変わらず、大本営発表じみた真似に終始していた可能性もあるかと存じます。
特に吉峯氏の場合は……言うまでもなく、対日歴協訴訟を受任し、一審、控訴審で全面敗訴しておきながら、そのことを「無かった」ことにしている模様です。
くどいようで恐縮ながら、呉座勇一氏の労働裁判、オープンレター訴訟等は、いずれも呉座氏サイドの「実質敗訴」、「実質二連敗」で終結しております。
無論、その時点で
「オープンレターは、キャンセルカルチャーでは無い」
「違法でも名誉毀損でも無い」
「日文研の処分とも無関係であり、何の因果関係も無い」
と、「和解条項」にて上記の内容等が法的に確定した厳然たる「事実」からも、ほぼ一貫して目や耳を逸らして拒絶し続けているのが実情かと存じます。
またまたくどいようですが、当時、オープンレター訴訟を報じた『弁護士ドットコム』の記事「ベストセラー『応仁の乱』呉座勇一さんを名古屋大教授らが提訴 「オープンレターを削除する義務ない」」によると、取材に応じた呉座氏の代理人弁護士の吉峯耕平氏は、
「(呉座勇一氏の)停職処分の『懲戒審査事由説明書』には、
(1)学会への影響、
(2)日文研の職場環境への影響、
(3)日文研の研究活動への影響、
(4)日文研の研究教育職員公募への影響、
と4つの影響があったことを記載した上で、(1)の説明として、『貴殿の不適切発言が公開されて以降、日本歴史学協会が声明を発表し、研究者等有志によるオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」がWeb上で国内外に公開されるなど、日文研の名前を不本意な形で国内外に知らしめ、日文研の学界における信用を失墜させた』とオープンレターの影響が明記されています。」
……などと、「主張」していたとのことです。
ところが、その後のオープンレター訴訟では……周知の通り、呉座氏サイドは自分たちの「主張」を撤回するような形で、オープンレター側に「和解」を申し入れて、「敗北的和解」(実質敗訴)が確定しております。
そもそも、上記の吉峯氏のコメントにある『懲戒審査事由説明書』とやらが「本物」であったとしても、実のところ、全文が明らかにされた訳では無く、肝心の「オープンレターの影響」に関する「説明」がどの箇所にあるのか。
遺憾ながら、第三者にも検証可能な形で、『同説明書』は公開されておりません。
当然ながら、この種の文書は基本的に部外秘扱いのため、呉座氏サイドといえども、日文研等に無断で勝手に公表することは難しいらしい事情は分かりますが……!?
穿った見方をすれば、法廷で『同説明書』が本物であり、記載事項が「事実」で実効性があったなどと立証できなければ、呉座氏が喰らった一連の処分(懲戒処分等も含む)は「オープンレターの影響」だと、客観的な見地からも認定されない可能性があるでしょう。
いずれにせよ、呉座氏が「主張」を取り下げて「敗北的和解」(実質敗訴)に踏み切ったのは……オープンレターと日文研から喰らった処分との間で、何らかの因果関係が成立するという旨のご自身の「主張」こそ、無理筋であった可能性を、事実上認めざるを得なかった結果でもあると考えますが。
尚、捕捉すると、呉座氏の対日本歴史学協会訴訟の一審判決(控訴審も、呉座氏サイドの全面敗訴)*2によると、上記の『懲戒審査事由説明書』は「証拠」として一応採用されたらしいものの、
「オープンレターはキャンセルカルチャーだ!」
「呉座氏はオープンレターのせいで失職に追い込まれた!?」
……云々の「証拠価値」としては、やはり、乏しいものとみなされたのか。
事実上、一顧だにされずに、黙殺された模様です。
管見の限りでは…再三再四繰り返すようで恐縮ながら、一連の反オープンレター騒動等が
「令和の背後の一突き伝説」
さながらの「オープンレター陰謀論」という名のデマゴギーとして、ここまで過熱し、長年、広範囲に渡って風評被害が拡大し続けた一因としては、言うまでもなく、こうした手合いの蠢動も否定できないでしょう。
いずれにせよ、とりわけ亀田センセイは……呉座騒動、反オープンレター騒動等について、公の場にて、何らかの形で説明責任を果たして頂きたく存じ上げます。
まさかとは思いますが、間接的であれ、ご自身に非や責任が1ミクロンも無いとは、本気でお考えではないでしょう。
恐らく、台湾大学当局には……今度という今度こそ、一連の呉座騒動・反オープンレター騒動等で提出しなければならない「進退伺い」が一通、そして長文の「始末書」が一通、最低限、それぞれ必要になることかと存じ上げます。
もとより、他の日本人教職員のものではありませんが。






尚、上記の松平氏のポストのリンク先のブログ記事は、現在削除されておりますが……魚拓は残っております。
同ブログ記事からは、松平氏ご自身が、夫の呉座勇一氏のみならず、呉座騒動と一連の裁判闘争等についても、如何なるご心境であったのかが、本当によく分かります。
ある意味、亀田センセイ、そして松平氏ご本人とも親交があるらしい玉井克哉氏らを筆頭とする反オープンレターズ「呉座神聖十字軍」のお歴々にとっても、必読かと存じます。
















亀田センセイ=ネット論客・HN【はむはむ】(ハムハム)、呉座勇一氏=ネット軍師・HN【御座候】のお二人が、mixi時代から一騎当千のご活躍をしていた名コンビであったこと。
センセイご本人が、mixiやブログのコメント欄にまで降臨し、「えっけん(ekken)」(エッケン)こと越後屋健太氏の「悪口を延々言った」こと。
……等々、今迄の当ブログにおける検証結果とも事実関係等が、ほぼ一致していることから、やはり信憑性が高い証言かと存じます。
尚、上記の呉座氏の発言での「加藤先生」とは、言うまでもなく、日本近現代史の泰斗である加藤陽子氏のことかと推定されますが。
余談ながら、呉座勇一氏が対日本歴史学協会訴訟(一審、二審で呉座氏サイドが全面敗訴)で提出した「陳述書」を改めて熟読すると、亀田センセイと同様に、各大学・博物館等の「公募」に落ちまくっていた呉座氏が日文研に転がり込めたのは……研究室の先輩のツテだったらしいとか、信州大学に寄付して紺綬褒章を受章したのは、ベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の印税の節税対策だっとか、興味深い事実等も分かって実に微笑ましい気分にもなって来ます。
呉座氏は亀田センセイにも複数回触れているのですが、一貫して「私の知人」「昔からの知り合い」等、一度たりとも「友人」又はそれらに該当する呼び方をしていないことも確認できます。
尚、「陳述書」の提出日は「令和4年(2022年)11月6日」とあります。
この前後から、呉座騒動後も交流があったらしい呉座氏と亀田センセイの間に、微妙な距離感が生まれ始めていたのでは無いか、とも存じ上げます。
